gameros’s blog

特撮やアニメの感想など書きます。

緩やかに死んでいくオタクの話

私は昔からアニメが好きで、ゲームも漫画も大好きだった。

周りの友人とも「昨日のアニメ観た?」「あのボス楽勝だったよな」「早く最新刊読みて〜」なんて言い合って、子供の頃は毎日が本当に楽しかった。

しかし歳を重ねていくにつれ、アニメをたくさん観るのも、新しいゲームで遊ぶのも、連載漫画を追いかけるのも、いつしか自分とほんのひと握りの友人のみとなった。

それらの趣味への情熱が冷めてしまった人達を、私は心の中で"脱落者"と呼び、「オタクの才能が無かったんだ」と見下していた。あいつらは私と違って素質が無かったんだ、オタクでい続けられる私は凄いんだと、オタクというステータスに謎の誇りを持っていた……のだが、どうやらその認識は少々間違っていたようだ。

私はオタクの才能があったわけでも運良く脱落を免れたわけでもなく、オタク以外の趣味に割ける体力が無く、ただ持っていた蝋燭が少しだけ長かっただけだった。

 

人類は皆、何かの蝋燭で心を照らす

ここまでアニメや漫画やゲームを趣味として持つ人間を"オタク"と古い意味で呼んでしまったが、今や○○オタクという俗称にジャンルは問われない。そう考えると、多かれ少なかれ人は皆、何かしらのオタクだった経験があるだろう。

もっと正確に言えば、自分の中のオタクの蝋燭に火をつけてみたことがあるはずだ。

蝋燭は長いもの短いもの、よく燃えるもの燃えづらいものと様々あり、当人のポテンシャルやジャンルとの相性で左右される。長く太いほどオタクとしての持続力があり、火が大きいほどオタクとしての瞬発力がある。そしてほとんどの場合、蝋燭の形や燃え方は最初からある程度決まっている。

「私はきっと一生オタクであり続けるのであろう」と簡単に考えていたが、そうあるためには本当に長い蝋燭を持ち、さながら聖火ランナーのように火に気を遣いながら走り続けなければならないのだ。簡単なことではない。

 

ゆっくりと確実に溶けていく蝋燭

私の蝋燭は未だ元気に灯を灯している。今期アニメだって数本追っているし、毎月のように漫画やゲームを購入している。

しかし、いつからか終わりが見える蝋燭しか立てられなくなってしまった。

生きている限り人生が減っていくのは当然だが、それにしたってほんの10年前の私であれば、柱のように太く縄跳びより長い色とりどりな蝋燭をドンドンドンと立て、火炎放射器で豪快に燃やしながらガハハと笑っていたことだろう。それが今やすっかり失速し、折れないかどうかおっかなびっくり蝋燭を立て、火を点けては消してを繰り返す始末。

これが大人になるということなのだろうか。私は子供を卒業しつつあるのだろうか。否、断じて否。これは成長ではなく老いである。私の中のオタクが体力を無くし、ただ枯れていっているだけなのだ。

私が"脱落者"と揶揄した人達はジャンルを推す才能が無かったわけではない。そのジャンルの新しい空気を摂取しなかったがため私より早く火が消えた、もしくは準備していた蝋燭が先に燃え尽きてしまった、更にもしくは、他の蝋燭に注力するようになっただけだったのだ。思い上がりも甚だしい。

そう考えると、私の数少ない蝋燭だっていつまで持ってくれるかわからない。次に火が点かなくなるのはどのジャンルか、それは1年後か10年後か、はたまた明日か今日か。オタクは自分を過信せず、変な話、今オタクであれることにもっと有難がるべきと言うか、価値を見出すべきなのだろう。

 

されど死ぬまで蝋燭を持つ

最近このような考えに至り、日々をただ浪費するのは勿体無いのだと気付くことができた。できたのだが、実際に浪費を防げているかと言うとそうではない。気付けばスマホTwitterのTLを眺めて1日を終えている。仕方ない、"オタク"と"浪費"は切っても切れない関係にあるし、Twitterは他人の蝋燭で楽に暖まることができる場なのだから。

私が一生何かのオタクでい続けられるかは、やはりわからない。長いと思っていた蝋燭がポッキリと折れてしまうことだってある。だからこそ今持っている蝋燭を大切にすべきだし、まだ火が点く内にその灯をしっかりと目に焼き付けておく必要がある。

人生の終わりが近づいた時、溶け固まったたくさんの蝋を見て「あぁ楽しい生き方だった」と言える私になるために、今日も私は蝋燭を灯すのだ。